【小児がん経験者】フットサル選手・中平雄介さんの体験談:病名説明とスポーツ復帰するまでの道のり

【小児がん経験者】フットサル選手・中平雄介さんの体験談:病名説明とスポーツ復帰するまでの道のり

「辛すぎて何回も死のうとした」・・・過酷な治療を受け生死を彷徨った過去を振り返るのは、周南ルキオス(山口県)で活躍する現役フットサル選手であり、小児がん経験者の中平雄介さん

16年前、当時中学2年生のサッカー少年に突然告げられた病名は「急性骨髄性白血病」でした。今回は小児がんの治療を受けているスポーツが好きなAYA世代に届くことを願って、中平さんに病名説明を受けた時の思い治療中からスポーツに復帰するまでの道のりについてお話を伺いました。

周南ルキオス フットサル選手・小児がん経験者の中平雄介さん

周南ルキオス フットサル選手・小児がん経験者の中平雄介さん

目次

「復帰」への強い想いと「生きる」を諦める感情

サッカー少年に見つかった血液の異常

中平さんは、ハイハイからやっと立ち上がれるようになった頃からボールに興味を持ち始め、いつも公園でボール遊びをしていました。それは一時的な興味ではなく、時間があれば隣の公園でボールを蹴って追いかける・・・家族に外出先を伝えず出かけるので、家にいないことを知ったお母さんは、まず公園へ探しに行かれたそうです。

ボールに触れる時間が長かった幼少期を過ごし、幼稚園年長からサッカーチーム(七次台FC)に所属、中学でもサッカーを続けて柏イーグルスへ。そんな青春真っ只中、学校の身体検査で異常が見つかったのです。血液検査で白血球と赤血球が極端な異常値を示しており、学校から電話を受けたお母様は、すぐに病院で検査するように伝えられました。

赤血球

小児がん患児(中学生)への病名説明

中平さんは、何かの感染症にかかっただけで、すぐに良くなると思っていましたが、検査の結果「急性骨髄性白血病」であることが判明。最初はご両親だけ別室に呼ばれて説明を受けました。長期間入院して抗がん剤の治療を受けなければならなかったため、中平さんのご両親は、本人に病名を告げられました。

病名説明を受けたのは2003年5月。主人公の恋人が白血病で亡くなる小説「世界の中心で愛を叫ぶ」の発行部数が10万部を超えて話題になったり、白血病で有名人が亡くなったりして、多くの方が「白血病=死」「過酷な治療」というイメージをもった時期でした。中平さんは病名を知った瞬間に頭の中が真っ白になり、「死ぬんだ・・・」それだけしか考えられなかったそうです。

2000年8月に格闘技の大会「K-1」で活躍していた空手家・キックボクサーのアンディ・フグさんが急性前骨髄性白血病のため35歳の若さで亡くなりました。また、2001年に小説「世界の中心で愛を叫ぶ」が発刊され、「セカチュー」と省略された言葉をよく耳にした記憶があります。私の次男が急性リンパ性白血病と診断された2004年になると、セカチューは漫画・映画・テレビドラマになり、小説の発行部数も300万部を超え、白血病になると助からないイメージは増すばかり。

2001年10月にテレビ放送された「3年B組金八先生・第6シリーズ」では、金八先生の息子が白血病と診断され、治療を受けて完解(がんの症状が、一時的あるいは継続的に軽減した状態)を迎えるのですが、抗がん剤の副作用で髪が抜けるシーンもあり、同じ病気であることを知った中平さんは自分自身と重ねてしまいました。

別の病院で看護師として働いているお母様が、「今は治る病気だから」と何度も繰り返し話されていたことが、その時の中平さんにとって、お母様の言葉は心の支えであり希望の光でした。そして何よりも、「またボールを蹴りたい!という想いが強かった」と、中平さんは当時を振り返りました。しかし、「またボールを蹴りたい。みんなと遊びたい」という強い想いと、「でも僕は死ぬんだ」という諦めの感情が交互に表れ、心が折れそうになる時もあったそうです。

【小児がん経験者】フットサル選手・中平雄介さんの体験談:病名説明とスポーツ復帰するまでの道のり

退院してすぐにボール蹴り・・・再入院することに

寝て治療を受けるだけの入院生活が1年間続きました。体重は1~2週間で5キロ以上減り、外泊時には歩くのがやっとで走り方を忘れるほど体力もなくなっていました。それでも、治療が終わって退院したらすぐにサッカーができると思い、次第に衰えていく体力に不安を感じながらも過酷な治療に耐えてきました。

しかし、またしても中平さんは絶望感に押し潰されそうになります。退院する前に主治医から、「半年間は運動しないように」と言われたのです。「思いっきり泣きました。悔しくて、家に着いてすぐに親に黙ってボール蹴りに行ったら、足がパンパンに腫れて再入院することに(笑)」と、中平さんは当時を振り返りました。

復帰への道のり

次第にサッカー部の練習に顔を出せるようになりましたが、すぐに激しい運動はできません。中学生時代はゴールキーパーをして、完全に復帰できたのは高校生になってサッカー部に入部してからです。この頃には活動制限はなくなり、思う存分体を動かせる状態でした。熱や体調不良のときはすぐに病院へ行き、定期検診もあったので月に1回は早退して病院へ行きましたが、スポーツを楽しむ日々が続きました。

「治療は大変です。それでも諦めないでほしい。僕も何回も辛すぎて死のうとしました。でも今、またフットボールができています。あの頃は考えられない未来が待っています。生きていれば何回もチャレンジできます。皆さんと一緒にボールを蹴れる日がくれば、僕は最高に嬉しいです!」

中平雄介さんから小児がん闘病中の子どもたちとご家族へメッセージ

生きてるのは本当に奇跡

私は発達障害である『吃音』を抱えています。小さい頃から言語がうまく発せず、周りから馬鹿にされることは日常茶飯事でした。中学生になると『急性骨髄性白血病』が発覚し、1年間の抗ガン剤治療を経験しました。

生死を彷徨いながらも、そして過酷な治療を乗り越えられたのも『またボールが蹴りたい』その一心でどんな治療にも耐えることができました。今、私が生きてるのは本当に奇跡だと思っています。

タイ、スペインとフットサル留学を経験し、夢だったプロ契約をイタリアで結ぶことができ、2シーズンプレーしました。そして今でも現役フットサル選手としてプレーできているのは、たくさんの仲間がいて支えてくれたからです。

【小児がん経験者】フットサル選手・中平雄介さんの体験談:病名説明とスポーツ復帰するまでの道のり

障害やガンを抱えている人とフットボールで繋がりたい

私が抱えている障害。経験した小児がん。を話すことは隠してきました。でも、私が発信することで1人でも多くの人と繋がり、少しでも夢をもつことができるなら。と思って、公にすることにしました。

私の夢は『日本1必要とされるフットサラー』。障害を抱えている人、ガンを抱えている人とフットボールで繋がりたい。そして夢を持ってほしい。全国を周り日本中の人とボールを蹴りたい。まだまだフットサルが普及していない地域があります。そこで一緒にボールを蹴って、楽しさを知ってほしい。

僕は人生をかけてボールを追いかけます。日本1必要とされるフットサラーになるために。夢を叶えるためにご協力いただける方。団体様。ご連絡いただけたら嬉しいです。

2017年10月3日のFacebook投稿より一部引用

中平雄介さんの経歴等 (古い順に掲載)

サッカー

  1. 幼稚園・小学生:七次台FC
  2. 小学生:柏イーグルス
  3. 高校生:船橋二和高校 サッカー部

フットサル

  1. ヒューマンアカデミー東京校
  2. FFCエストレーラ埼玉(埼玉県1部リーグ)
  3. シュライカー大阪サテライト(Fリーグ下部組織)
  4. 柏TOR’82(F2)
  5. oasi c5(イタリア セリエC1)
  6. TD santamarinella(イタリア セリエC2 リーグ優勝経験)
  7. 浜田フットサルクラブ(F2)
  8. 府中アスレティックサテライト(Fリーグ下部組織)
  9. 周南ルキオス(山口県)

SNS

※ 本ページの引用文・個人写真・経歴等は、中平雄介さんの許可を得て掲載しています。個人写真以外はイメージ写真です。

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